真似るは恥じゃないし役にたつ!学び・真似る+応用・工夫=自分らしさ

応用・工夫 イラスト

人生において、真似るは恥じゃないし役にたつ!と考えています。

イラストやロゴを作成していると、敏感に考えてしまう時があります。

真似とパクリの意味の線引きはどこにあるのだろうか?と。

生きる上で真似ることは向上するための基盤として必要だと思うが、こと自分の絵や作品が誰かの真似(パクリ)だと言われれば良い気はしないし心外でしょう。(言われたことがあるわけではありません。)

 

 

⒈ 人間の成長の基本は真似ることにある

 

真似という言葉は一見マイナスなイメージを抱かせがちですが、これはどちらかというとパクリに近い解釈の時だと思います。パクリは言語道断だが、良い意味での真似は向上には欠かせない。そう考えています。

人間は何かを生み出す時に、その根底には必ず、今まで見聞きしてきた情報や経験が存在するはずです。現代においては、真にまっさらな状態から何か新しいこと(何とも関連がない新創物)が生まれることは極めて稀ではないでしょうか。究極的には、何事も既存の何かを参考・原点にしていて、そこからインスピレーションを受けて更に新たな何かが生み出されているということです。

何かしらの技術を習得するのも、基本は真似ることから始まります。見よう見まねから、習得にいたり、自分なりの応用が生まれていきます。自分の色を出すことによって、やがて唯一無二な存在にもなれると思います。それでも、根底にあるのは真似です。

 

 

⒉ 真似る(まねる)と学ぶ(まなぶ)

 

語源由来辞典によると、

真似(まね)は、動詞マネブ(学ぶ)やマナブ(学ぶ)と同源。”真に似せる” の意味からマネ、マネブが生じたのちにマナブとなった、もしくは “誠に習う” の意味からマナブが生じ、名詞としてマネ、動詞としてマネブが生まれたと考えられるが、これらの語形は同じ平安時代に見られるため前後関係は明らかでない。

とある。

真似る(まねる)と学ぶ(まなぶ)の語源が一緒であるのであれば、やはり向上の原点に真似が存在することには納得がいく。

学び・真似ることで基盤が出来上がり、自分らしさという応用・工夫を加えて他にはないものにすることが向上とも言えます。

 

 

⒊ 自分らしさという応用・工夫

 

他との違いを出すには、自分らしさという応用・工夫を加えるプロセスが非常に重要です。

既存のものを学び・真似る過程に応用・工夫がプラスされるということです。この応用・工夫がなければ、それは単なるパクリになってしまいます。もちろん、ことによっては学び・真似るだけで良いことも沢山あります。また、学び・真似ることができなければ応用・工夫なんてできないという考え方もできます。

 

医療者の立場から言えば、様々な分野のドクター達が、各々の分野で審査・診断・治療を同じレベルのスキルでできることは望ましい現実であり、患者さんにとっても有益なことです。どこへ行ってもある程度の水準の医療が同等に受けられることになります。そこには日々の “学び・真似る” が存在します。それができた上で、さらに応用・工夫を加えて新たな、有益な技術が生まれてきています。ドクターそれぞれの、自分らしさという応用・工夫があって、医療の日進月歩が支えられているとも思います。

 

視点を変えて物作り(クリエイター)の立場から言えば、”学び・真似る” だけでは一歩間違えると”パクリ・盗作” と捉えられかねません。そこには、自分らしさという応用・工夫が不可欠です。もちろん基本を知るまでは”学び・真似る” が欠かせませんが、そこで終わっては自分の作品として世に出すことは困難です。他のとの違いがなければ、そもそも依頼もいただけないでしょうし。さらには創作者としての自分に胸を張れません。

 

他との違いを出す上で、自分らしさの追求には終わりはなさそうです。

 

口腔外科治療にしても、イラストにしても、そして人生においても “学び・真似る” の上にいかに自分らしさという応用・工夫を重ねられるかが鍵です。(もともと人と一緒じゃつまらないという思いが強い方なので、尚更そう意識しています。)

人生のオリジナリティを意識して、自分らしさという応用・工夫を絶やさない事を意識していきましょう。

 

自分に胸を張る(Chest out!)のために。

 

 

【今日のオランダ語】
発明するとは、工夫して考え出すことです。
Uitvinden is ontwerpen door na te denken.
(アウトフィンデン イス オントゥヴェルペン ドールナトゥ デンケン)